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絵馬になった幾何学の問題

円や三角形の図が描かれた絵馬、「算額」を見たことがありますか。江戸時代に身分に関係なく多くの日本人が算術をたしなんだ時期があり、多摩地方でも当時の算額が発見されました。江戸時代の民衆の熱い探求心を感じてみませんか。

算額とは


住吉神社の「算額」。数学の問題が解けたことを神に感謝し、さらなる研鑽を祈願しました。

円や三角形の図が描かれた絵馬を見たことがありますか。江戸時代から明治の初めに、絵馬に図形の問題と解答を書いて、神社に奉納した人たちがいました。その人たちは、和算家やその弟子たちでした。この絵馬は木の板で、長い辺が1m位の長方形の大きな板が多かったようです。この板を「算額」といいます。数学の問題が解けたことを神に感謝し、さらなる研鑽を祈願したそうです。また、自分たちの派閥の実力を宣伝する意味もあったでしょう。

和算は、大昔に中国から輸入されたそろばんの習得を土台に日本で独自に発達した算術です。計算方法を追及して、方程式、行列式、級数の高度な解法にまで到達していたそうです。しかし、趣味や習い事として発展した和算は、実用的で体系的な西洋数学の導入で、明治時代に衰退しました。

算額は、日本の各地で見つかっています。木に墨で描いたので、長年の風化で字が消えて読めないものや火災や戦災で焼失したものが多かったでしょう。佐藤健一先生(数学史の研究家、和算研究所理事長)が、『多摩の算額』で、多摩で発見された場所、奉納した人々の紹介、算額の内容を記録しています。佐藤先生にお会いして、和算の歴史の大きな流れを伺いました。計算という実用から始まりながら、極めると芸事として特殊化していった和算が、いかにも日本らしいなと思いました。

多摩在住の小嶋健治先生は、定年退職後、和算を題材にした数学パズルを考案し、子供たちに紹介してきました。受験などの目標を抜きにして、知的好奇心を刺激することやパズル感覚で算数を楽しむことを伝えてきました。情報にあふれている現代だからこそ、ただ解くのがおもしろいからというだけで、算数を楽しんだ江戸時代の人々に習ってもいいのではないでしょうか。

多摩の算額を訪ねる


住吉神社の算額は見やすい位置に掲げてありました。

『多摩の算額』に紹介されていた神社のうち、5か所を巡って、算額を奉納した江戸時代の人たちの数学への思いを偲ぶ旅に出ようと思いました。5か所とは、あきる野市の「二宮神社」(JR五日市線東秋留駅から)、八王子市の「住吉神社」(JR横浜線片倉駅から)、府中市の「大國魂神社」(JR南武線府中本町駅から)、稲城市の「穴澤天神社」(京王よみうりランド駅から)、武蔵野市の「西窪稲荷神社」(JR中央線三鷹駅、西武新宿線西武柳沢駅から)です。

それぞれの神社の境内は、時がとまったような独特の雰囲気を持っていました。緑に囲まれて、昔の空気を守っているかのようでした。また、絵馬堂や絵馬掛け所があり、今でも絵馬を大事にしていることがわかりました。特に、印象に残ったのは、住吉神社と大國魂神社でした。この2か所は今も算額の復元や現物を展示していたからです。

住吉神社は、片倉城址公園の一角にあります。無人の小さな拝殿があるだけです。神社の説明文には付記があり、当神社には、嘉永4年(1851年)川幡元右衛門泰吉および、その門人が「数学の実力がつきますように」という祈願された算額が奉納されたとあります。社殿には、復元されたきれいな算額が奉納してありました。はっきり読めます。片倉城址公園は、緑に囲まれ、北村西望やその他の彫刻家の作品が点在していて、ハイキングにもってこいの場所です。訪れた時も、ベンチに座っておにぎりを食べる人や読書する人、彫刻や景色の写真を撮る人など思い思いの時間を過ごしていました。

大國魂神社は武蔵国の総社でした。府中は古くは武蔵国府の所在地であり、近世は甲州街道の宿場町として栄えた町でしたが、その中心となったのが大國魂神社でした。現代でも人出の多い神社です。訪れたとき、結婚式や七五三などの参拝客で混雑していました。ここに奉納することはかなり反響があったと思います。算額は、拝観料の必要な宝物殿の2階に展示してあります。保管状態が良く、読める状態です。有料で算額を解説した冊子も販売されています。

江戸時代のコミュニティ力


大國魂神社は武蔵国の総社。宝物殿で算額を見ることができます。

八王子には、江戸時代、八王子千人同心と呼ばれる半農半士の集団が住んでいました。武道だけでなく、学問や教育にも熱心でした。千人同心が、その子弟や農家の子弟に対して開いた塾がたくさんありました。和算を学んだ私塾の出身者の多くは、明治期に、多摩地区の発展に貢献する各分野で活躍しました。学校の制度がない時代に、教育の基盤となった私塾の働きは重要です。

江戸時代の多摩地区は、山麓部の谷口集落として発達した八王子、青梅、五日市と街道沿いの宿駅の小集落を除けば、新しく開かれた畑作中心の農村地帯でした。江戸に出て、和算を習得した人物が地元に帰ると、口コミで勉強会や塾が開催されたようです。農家の閑散期や農作業を終えた夜間に、集まって、勉学に励んだ当時の熱気がうらやましいです。また、学問を身につけた者が、周りに教えるということが自発的に行われていたところがすばらしいです。当時の人々の知的好奇心の強さやコミュニティ力に感心しました。

2016年03月26日

記者プロフィール

山元 正美
立川在住20年。東日本大震災を契機ににしがわ大学を知り、登録。ゆるくつながっていましたが、今回、初投稿、初インタビューに挑戦でした。

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