校則違反の開襟シャツとボンタンと呼ばれる太めのズボン、そしてプラモデルにホビージャパンやアイドルのポスターを買いに行く。そんなデパートがあったのです。
あの頃の立川
- 解体される前の第一デパート
1980年代、僕が中学、高校生の頃の立川駅北口は、再開発が始まる前のまだまだ雑多な雰囲気の残るまちでした。青梅線に沿うように第一デパート、その向かいは長崎屋。ロータリーに沿うように高島屋と雑居ビルが並び、ビックカメラが小さな伊勢丹。フロム中武は中武デパートと呼ばれ、シネマシティになる前の立川松竹劇場・立川中央劇場・立川セントラル劇場と古い映画館が並んでいました。82年に完成し橋上駅舎になった駅ビルはWillと呼ばれ、南北が自由に行き来できるようになり便利にはなったけれど、一人では歩かないほうが良いという場所がそこかしこにあり「おまえ何中(なんちゅう)だよ?」なんてどこの中学かと声をかけられたりしたら、その場をどうやりすごせばよいのかと緊張したものです。
そんなわけで、武蔵五日市に住んでいた当時の僕らかすると電車に乗って立川を目指すのはちょっと背伸びをしている感じで、平屋の映画館で映画を見て、買い物をし、お金がないので高島屋の地下の焼きそばや中武デパートの「すみや」、駅前の「シェーキーズ」でお腹を膨らませ、ただそんなことをぶらぶらとしているだけなのに少し大人になったような気分で一日を過ごしたのでした。
そして、その中でも足繁く通った場所が、2012年5月15日に46年の歴史に幕を下ろし閉館した第一デパートです。
昭和のデパート
第一デパートは1964年1月、国鉄立川駅の青梅線ホームで普通電車にガソリンを満載したアメリカ軍専用のタンク車が衝突・炎上する衝突事故が発生し、火災により焼失した跡地に、当時の焼け出された店主たちが建設し1966年7月にオープンします。地上6階、地下1階建てで地元の商店など約80店舗が入店してのスタートだったそうです。
専門分野にこだわった店舗も多く、オリオン書房立川北口店はコミックを中心に、鉄道・軍事・ホビー系の書籍が充実していて、今や世界のホビーショップコトブキヤもオープン当初から入店していました。
そのコトブキヤ、昭和48年にひな人形や玩具を扱う店として立川駅北口に壽屋として創業。立川駅タンク車衝突事故に巻き込まれて店舗を焼失し、第一デパート内で再出発したのですが、第一デパートの運営会社の初代社長は壽屋の創業者だったそうです。
僕たちのたまり場
- モノレール工事の先に見える第一デパート
- 館内案内板、「ウィング」は2階にありました。(第一デパート懐古展より)
初めての第一デパートは転校したての中学校の同級生に、ノーマルの学生服なんかダサいと連れて行かれた「ウィング」という洋品店でした。学生服の専門店なのですが、ボンタン・ドカンと呼ばれるいろんな太さのズボンに短ラン、長ランと呼ばれるいろんな長さの詰襟、その詰襟の裏にはオーダーで竜や虎の刺繍が入れられて、細い豹柄や白のエナメルのベルトやタートルネックに赤や黄緑のセーターなどを売っているそんなお店で当時は校則違反になっている学校が多かった開襟シャツと少し太めのズボンを買ったのでした。
そして一つ上の階の「ホビーショップコトブキヤ」、ショーケースに飾られたプラモデル職人たちが作りあげた作品は一日中見ていても飽きない完成度で、いつかは自分もこのケースに飾ってもらいたいとプラモデルを買い、ニッパーややすりなどの道具をそろえ、プラカラーで仕上げていく。参考にしたのは「オリオン書房」で買ったホビージャパン。結局一度も飾れたことはないけれど第一デパートの中では一番通ったお店です。
地下にはお金の無い僕たちには高嶺の花でなかなかはいれなかった、(たてまえで)立川で3番目にうまいスパゲッティというキャッチコピーの「サンモリノ」。たまに小遣いに余裕があるときに食べるカレースパゲッティーやナポリタンにミートソース、どんな味だったか忘れてしまったけれど、とってもうまかったような気がします。
「ウィング」と「コトブキヤ」の客層はまったく対極。それでもポスターショップの「ジュネ」でアイドルのポスターを物色したり、「アポロ」でレコードを探したりと、他にもごちゃごちゃとお店が連なり混沌とした店内で僕たちはうまくミックスされ、それぞれが共存できるデパートだったのだと思います。
ただ、トイレだけは一人で行ってはいけないと...。そんなみんなに愛されていた第一デパートの思い出でした。
2015年05月10日|立川市
記者プロフィール
林 雅一
13歳より武蔵五日市、福生、三鷹とにしがわを転々とし現在小平在住。にしがわに住み32年、にしがわ以外でのくらしがまったく想像できない根っからの多摩っ子です。